「傷付く」ことについて

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よく「誰々のせいで傷付いた!」と言う人がいますが、傷付けられたと言う人の中に、傷付く要因=種があり、そこを刺激されたから傷付けられた、と言っているだけです。
無自覚にしろ、うすうすにしろ、本人にも覚えがあって、図星を刺されただけであることが殆どかと思います。

例えば、私は自身をオバサンと認識しているので、誰かからオバサン呼ばわりされたとしても、特に何の感慨も湧きません。
感情的にフラットですし、下手に若く見えるような言動を向けられると、違和感しか感じません。

しかし同じアラフィフでも、若く見られたいとか、若く見えるよう努力をしている人からすると、オバサン呼ばわりされるのは許せないことになるでしょう。
その許せない思いを指して、傷付けられたと言いますが、だったら相手を見返すような努力を更に重ねて、実際に見返せば良いのです。

明らかにオバサンにしか見えないのに、それを否定する相手に対して、ただ文句を言うのは、ただの痛い大人にしか私には映りません。

オバサンと呼ぶ相手が悪いのではなく、オバサンと呼ばれるような身形をしている人間が、そこに存在する事実があるだけ、でしょう。

それを受け入れるも、受け入れないも個人の自由で構いませんが、その人が受け入れない事実は、他人に強要できるものではありません。
それにも関わらず、「傷付いた」と自分を被害者に置いて、他者や相手を責める人がとても多いのが今の世の中です。

自身に刺さるものがあった時は、自分の中の何に刺さったのか、内観するタイミングです。

内観することで自分自身をより深く理解することができます。

自分が自分の理解者にならずして、どうやって自身を幸せにしていけるのでしょう。

自分で自分を理解せずに、どうやって自分自身が欲しいもの、真に望むものがわかるのでしょう。

「傷付けられたのではなく、磨かれたのだ」という言葉がありますが、本当にその通りだと思います。

磨かれることで、その人の真正の魅力が内面から溢れ、輝き出すようになります。

そのような魅力的な人は、被害者意識で他者を責めたりすることに、自分の人生の時間を使いません。

自分自身が望むことにまい進して、人生を生き、幸せを感じて過ごしています。

他罰的な言動をする人たちを眺めていると、自分の人生の時間を、ちゃんと自分の為に使っていないので、ホントもったいない!と感じずにはいられません。

また、他人の人生の時間を奪う(他者をコントロールする)ことに執着するのも、自分の人生の時間の使い方としては間違っています。

他者に意識を向けている限り、それは自分の人生を生きることには繋がらないためです。

自分の人生を生きられないうちは、自身が満たされることはありません。
やりたいことをやっているつもりなのに、満たされないのであれば、それは自分自身が自身の真の理解者になれていないためです。

どうか傷付くことを恐れずに、行動を起こし、他者と関わり合って欲しいと思います。
経験を経たことで、磨かれて、より一層輝きを増し、魅力的な人間になっているのですから。

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