玉置神社での気付き

Blog

玉置神社に行ってきました。
行ってみて、ここは一般的な神社とは全く違う場所で、祭祀場である、という印象を受けました。
合致する言葉がないのですが、強いて言えば、元初のエネルギーが溢れる場所です。
光でも闇でもなく、陽でも陰でもなく、白でも黒でもない、素のまま、剥き出しのエネルギーが感じられるところでした。

とても興味深く、面白い、と感じました。
私は車の運転ができないので実現できませんが、夜に来てみたら、日中とはまるで違う表情が見れそうだ、とも感じました。
(チャンスがあれば夜に行ってみたい場所です)

そんな元初のエネルギーに触れ、気付いたことがあります。
行った日は雨が降り続く、あいにくの空模様で、傘をさし、合羽を着て参拝していました。
玉石社で参拝を終え、(ツアーで行ったので)集合場所に戻る途中で、「雨が降ったら濡れるのは当たり前」だな、と気付きました。

雨が降ったら濡れるのは当たり前です。
だから濡れたくなければ、傘をさしたり、合羽を着たり、長靴を履いたりして備えます。
雨が降るのは自然の摂理なので、人間にコントロールできるものではありません。

それなのに、雨が降って、足元が悪くなると、それらに対して愚痴や文句を言う人が多いです。
荷物が増えたり、濡れたくない心情は理解できますが、愚痴や文句は傲慢だから、出るのです。
人間だって自然の摂理の中に存在するのに、まるで自然の摂理から外れた存在のように思い上がっているから、愚痴や文句が出てくるのです。

自然の摂理を受け入れていれば、あとはただ粛々と対応していくだけで、そこに愚痴や文句の出る幕はありません。
もちろん人間は感情を持った存在なので、喜怒哀楽を感じることはありますが、自然の摂理を理解していれば、あとはただ受け入れて、淡々と対処していくだけです。
自身の感情をいつまでも引きずるのは傲慢だからです。

思い上がって、傲慢になっているから、被害者意識も出てくるのです。
自分は被害者だから、可哀そうな立場だから優しくされて然るべき、保護されるのが当然、と勘違いするのです。
ぬくぬくと居心地の良い環境が与えられるのを当然とし、そこから外れることが即、不幸、のように考えるのです。
表現を変えれば、苦労せずに自身の欲求が満たされることを良しとし、それが満たされなければ不幸だと考えているのです。

そのような考えは、そもそも自然の摂理から外れているので、叶わなくて当然です。
自分が作った傲慢のせいで、不幸を感じるなんて、おかしな話です。

きれいな部屋に住みたければ掃除をすれば良いし、健康になりたいのなら身体が喜ぶ食べ物を食べれば良いし、病気になりたくないのなら身体を清潔にして、活動的に過ごせば良いのです。
お金が欲しいなら働けば良いし、給料を増やしたいならスキルを上げるなり、上長と賃上げ交渉をすれば良いのです。

それらの労を惜しんで、結果だけを望み、それが叶えられずに嘆くのは、傲慢以外のなにものでもありません。

そんな傲慢に気付いてからは、怠惰な自分が顔を出しそうになると、「こんなことではダメ」と自身を奮い立たせ、黙々と、するべきことに打ち込めるようになりました。
なまけたくなっても、なまけるのは傲慢だから、そんな時間がもったいない、と考えるようになりました。

何かが大きく変わった訳ではありませんが、道理に従って生きることが、ますます楽になったように感じています。
そして私自身、少しだけですが、人間として深みを増すことができたかな?と思いました。

タイトルとURLをコピーしました