視えるor視えない、聴こえるor聴こえない

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自己紹介で書いているように、私自身は視えませんし、聴こえません。
視えず、聴こえず、でどうやって知覚しているのかと言うと、一番近い表現は、感覚的に解る、というだけです。
知らないはずのことなのに、何故か知っている、という感じです。

脳内に映像が出現することもありますが、その瞬間に、それが意味するところや、含まれる情報が、元々知っている知識として思い出されるような感覚です。

神社仏閣で神様や眷属方と話すというのも、そのような感じです。
疑問や質問を投げかけると、瞬間的に答えを思い出すような感じで、ひらめきが来ます。
この時に映像として表れることもあります。

私はこのようなタイプですが、視えた内容、聴こえた内容について、答え合わせをしたがる人がいます。

ただこのような場合、視た&聴いた内容が同じであることを期待しての答え合わせであることがほとんどかと思います。

同じであれば安心感が得られるのでしょうが、何故、視た&聴いた内容が他者と同じでないといけないのでしょうか。

円錐を真下から見たら〇(まる)だし、真上から見たら・(てん)ですよね。
横から見たら△(さんかく)だし、斜めから見たら角度によって違って見えます。更に、平面で捉えるのか、立体的に捉えるのか、でも違います。

たとえ同じ姿形を捉えていたとしても、そこで過去を視ている人、現在を視ている人、未来を視ている人、もしくは異次元(多次元)を視ている人、もいるでしょう。

色だって、個々のフィルターを通せば違って見えることでしょう。

私は把握している次元の違いや、知識の有無も見え方(把握の仕方)に影響すると考えています。
(例えば、神様と呼ばれる存在でも高次と低次があるにも関わらず、全て高次と捉えるような)

言いたいのは、他者と違っていても全然構わない、ということです。
同じ場合もあるし、違う場合もある、ただそれだけです。

そうであるからこそ、その得られた知見は貴方だけのものであって、他者のものではありません。
求められたならともかく、他人に強要するものではない、ということです。

視えない世界が現世より上位に来るものではありません。
視えようが、聞こえようが、解ろうが、「だから何?」「それで?」です。

肉体を持ち生きている以上、今居るこの場所で、生きることが最も大切で、それだけで充分です。
生き抜くことに価値があるのです。

ここは私のブログなので、私が表現したい内容を書き綴っていますが、その内容を受け入れるも、受け入れないも読み手の自由です。ご自身に合わないようであれば、離れれば良いだけです。

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